近代の解読 現代の解法
巻頭言(アブストラクト)
1日1.9ドル以下で生活しなければならない(つまり飢えるほどの)絶対的貧困層は 1990年には全世界人口の36%もいましたが、2015年には10%にまで減りました。
しかし 同時期 日本では、グローバリズムと呼ばれる国際的市場競争のもと、発展途上国への工場移転や税制上の累進性の減退などで富裕層はさらに富を積み上げる一方 多くの人が相対的貧困層(その国の平均所得の半分以下の所得の層)に落ちました。
生活に苦しむ人々も増えましたが、公的なケアはむしろ減り、社会の疲弊と分断を招きつつあります。
「少しずつ世界は良くなっている」と思いたいものです。
しかし 安価な労働力で輸出を増やして経済力をつけた後に他国の領土や公海を自国の核心的利益だの生命線だのと称して侵略し自国民には現政権への無条件の忠誠を誓わせようとする集団に率いられた現在の中国の姿は、戦前の日本とそっくりです。
多くの国民の生活苦を背景に、社会主義を非難し国際協調をないがしろにしマイノリティへの差別を容認し熱狂的な一部の支持者をあおり立ててみずからの権力を保持しようとしたトランプ氏は、共産主義者に国会議事堂放火の濡れ衣を着せヴェルサイユ体制を離反しユダヤ人やスラブ民族を差別し突撃隊を使って政敵を排除したヒトラー氏とおかしなほど似ています。
そんな彼らを指導者とする私たちの世界は100年前からそれほど進歩していないかもしれません。
現在、少なくとも先進国の人々は、普通選挙権もあれば 平等を裁判所に訴えることもでき、周囲から評価や感謝をうけつつ安心して生活できることを自由に求めることができ、インターネットに発信することもできます。
しかし 実際に自分を取り巻く社会に影響を与えられると思える人がどれほどいるでしょう。
むしろ とらえどころのない諦めに囲まれ、自分自身を変えうる可能性すら疑っている人が多いのではないでしょうか。
「難しいことを言わなくても 景気さえよくなればいいんだよ」と笑う人もいるでしょう。気休めとわかっての言葉ならよいのですが、本当に考えることを避けて生きることに慣れてしまうと 笑いごとではすみません。
考えることをやめることは世界とのつながりを切ろうとすることであり、そのような孤立はみずからと世界への共感を弱めます。アーレントが指摘したように、考えることをやめた人は容易にニヒリズムに埋没し、生きている実感も薄くなり、自分や他人の命や生活に価値を見いだせなくなります。いずれは扇動やフェイクニュースに踊らされる愉快な仲間達と一緒に無責任で短絡的で夢想的な行動に走ることになるでしょう。
ですから 一緒に考えましょう。
これらの現実は近代が積み重ねてきたシクジリとインペイが暗号のようにからみあった結果です。
ここでその暗号を解読します。
それは同時に、未来の経済のグランドデザインとそのために必要な統治制度について述べることになり、またこれまでそれを妨げてきたものをあばくことにもなるでしょう。
これは dividualism とでも呼ぶべき一個の思想であり、つまり一種の推理です。
推理小説は近代の生んだ優れた娯楽です。
しかし 奇抜なトリックを見破った探偵が意外な人に対して「犯人はあなたです」と言えば面白くなる、というものでもありません。犯人を最初から匂わせるスタイルの作品にも、たとえばエリンの『特別料理』のような秀作があります。
この論文の内容も、かいつまんでここに紹介しておきます。
近代人は生産の効率化を社会の最優先課題とし、分業、機械化、自由市場、民族国家の統一などにより それまでになかった豊かさを実現しました。
しかし 効率化とは多くの労働力が不要になることでもあります。それは現代において需要の低減を招いています。その中で政府は株価や地価や大企業の正社員ばかりを優遇し、経済的格差は拡大するがままです。
しかし これが資本主義の本来の姿だと考えるのは誤りです。
資本主義の本質は効率の追求ではありません。生産手段の私有 すなわち 経済的な権力分立です。
従って 市場競争の場の横に 配分の適正や長期的な生産力の維持のための経済システムを構築することも、本来の資本主義のありうる姿です。
政府は、経済を支える両輪のひとつとして、レジリエンス強化と有効需要育成をリンクする役割を担うべきです。
具体的には公的再分配の民主化、地方通貨導入、税制改革等の新たな「ビッグプッシュ」が必要なのです。
近代政治の特色は、構成員の中から統治を担うにふさわしい人を選び出し、さらにその人が自分と仲間達だけに都合のよい政治環境を作り上げないよう 権限の集中を避け 交代可能性を維持するしくみにあります。
先人達は権力の流動性を守るしくみを作ろうとしたのです。
しかし実際には 政治的権限は中途半端に集中したままになっています。民主制の看板の裏で少数の人は権力を利権に醸造する工夫を忘れません。役割が固定されてしまった社会は仲間同士のものではなくなります。
本来の民主制そして権力分立は まだどの国においても実現していないのです。
個人が周囲からの同調圧力に耐えて意見を自由に変えやすい流動的で開放的な政治システムを仕上げるべき時が来ているのです。
具体的には「政党の活動の制限」「選挙改革」「法曹一元化」等の改革が重要です。
これらは、近代の経済や政治を支える理念の歪みからみすごされてきました。
そこで 第一部の終章では 様々な理念そのものを解析します。
また これらのシクジリの土台には 近現代人の認識の偏りがあります。
言語化できる結論を重視するあまり、言語にできないもの すぐには結論がみえず手順をたどるしかないものを軽視する癖をつけてしまい、本来の人間の能力の半分しか使わないことに慣れてしまっているのです。
そこで 第二部ではいわゆる認識論を検討する中で、近代と地続きの現代に区切りをつける途を探ります。
目次
- 第一部 社会
- 第二部 人
- プロローグ 疑問
- 第一編 私たちは何をしているか - what
- 第二編 私たちはどのように生きているか - how
- 認識(意識と体認)
- 自分と自己
- 欲求
- 知識(知る)
- 感情 (PDF:332KB)
- 学問
- 型(かた)
- 信仰
- 神
- 宗教
- 参考文献